宿曜占星術の歴史
宿曜経の起源は、今から約3000年ほど前にインドで暦として発祥したものです。仏教を学びに中国からインドに渡った「不空三蔵」という僧が中国に持ち帰り、中国宿曜道として発展しました。
宿曜経を日本に伝えたのは、真言密教の開祖、弘法大師空海です。空海は今から約1200年前に、遣唐使として中国に渡り、多くの仏具や経典を持ち帰りました。その経典の中に宿曜経があったのです。空海は日常の生活・行動に積極的に宿曜経を取り入れ、彼の弟子達にも教えました。当時の政治の判断基準として重宝されていた『陰陽師』と人気を二分するまでになり、宿曜経の使い手を『宿曜師』と呼ばれるようになりました。当時の国家鎮護は『陰陽道』と『宿曜道』、この二つの占いにより国が守られていたということになります。平安時代に偉業を成し遂げた空海は、五行や干支と併せて宿曜経のロジックを用い、その当時の最先端の修法や秘法を数多く行いました。
そのひとつに「神泉苑の雨乞い」は有名です。当時、日本中が長期間にわたって降水量が激減し、野山の草木も枯れはて、食糧危機に襲われました。大干ばつという異常気象を打開すべく、淳和天皇の勅命を受け、空海は八人の弟子と共に秘法を駆使し、神泉苑で雨乞いの祈祷を行いました。すると、竜王が大蛇の姿で現れ、大空はたちまち雲に包まれて大雨を降らせました。その後三日三晩甘露の雨は降り続け、枯れ果てた大地はよみがえりました。
宿曜経は正確には「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」(もんじゅしりぼさつしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくしゅくようきょう)といいます。あまりにも長い名前なので後ろの3文字をとって「宿曜経」と呼ぶのが一般的です。この長い題目の冒頭に「文殊師利菩薩」と書き記されていますが、これは「三人寄れば文殊の智惠」の諺で有名な「文殊菩薩」のことです。「文殊菩薩」は諸菩薩を主導するほどの智惠の優れた菩薩であり、学問成就や智惠、息災、増益、出産、除病の功徳がある菩薩です。次に「及諸仙所説吉凶日善悪宿曜経」とあり、これはその他諸々の仙人達が文殊菩薩の智惠を授かって、日々の吉凶や物事の善悪を説いた、という意味です。この長い題目を見ただけでも宿曜占星術が教えてくれることの壮大さが解ります。
この宿曜経は、時代を通してさまざまな場面に登場します。当時の平安貴族の間で大いに人気を博し、紫式部『源氏物語』に「宿曜のかしこき道の人」と記述があることからも、その評判を知ることができます。「桐壷」の巻では主人公の光源氏が誕生した際、宿曜師にその運命を占わせる場面も書き下ろされています。また、藤原道長の日記の暦注の中にも書き記されています。
時が流れて戦国時代、宿曜経は皮肉にも戦術をサポートする軍師の役割として活用されるようになります。一説には、織田信長も敵対する武将との相性を占い、戦いに赴いたという話もあります。武田信玄の軍配にも27宿が描かれています。当時の武将は、敵に生年月日を知られては勝利の妨げになると考え、生まれた日を隠したりしたそうです。戦国時代の武将は宿曜経を活用して戦術をたて、自分に有利な戦況に持ち込もうと必死だったに違いありません。江戸時代に入ると徳川家康の側近、天海僧正が宿曜経を活用したと言われています。天海は徳川家康(斗宿)と全国の大名との相性を占い、配置転換などを行ったそうです。
子供のこれまでの成長を祝い、さらなる今後の成長を祈念する七五三の行事にも宿曜経が使われています。七五三の発祥は諸説ありますが、旧暦の十一月十五日に固定化したのは、三代将軍・徳川家光です。家光の四男である、幼名徳松(後の五代将軍・綱吉)が病弱であることを心配し、綱吉の無事と成長を祈るために、袴着の儀式や修法を行ったのが旧暦十一月十五日です。
なぜ旧暦十一月十五日に儀式や修法を行ったのかというと、旧暦十一月十五日は満月であり、この日の宿は「鬼宿」に当たり、あらゆる事に大吉とされる吉祥日だからです。また、お釈迦様(ブッダ)の誕生にも由来する日とも言われています。後に庶民もこれに習い、現在の歳祝いとして引き継がれています。
時代を通して、さまざまな場面で活用されてきた宿曜経は、そのあまりの的中率の高さに江戸時代、徳川幕府は宿曜経を封印してしまいました。時が経ち、明治以降に再び宿曜経は宿曜占星術として見直され、近年注目を浴び始めています。